シングルマザーの勇気と情熱

「母として」から、「自分らしく」へ。2019年、気球に乗り換え、さあ出発!

最初の告知

その日——どうやってS病院へたどり着いたかが思い出せない。午前午後とも通常通り仕事をしていたはずなのだが……いったん落ち着いたように思えて、やはりどこか普通でない状態だったのかもしれない。

この日、唯一心の支えとなっていたのは、この人生の一大イベントの日が、奇しくも父母の結婚記念日だったということだ。さゆりはその1年と4日後に誕生することになるが、母は自分の結婚指輪の内側に刻まれた日がよほど愛おしかったのか、よく勘違いしてこの日に誕生日ケーキを買ってきた。おかげで実家で行われた誕生会は、かなりの頻度で、4日ほど早いこの日に行われたものだ。

ところで——さゆりは過去に数回、強烈な光の環を見たことがある。それは、人の頭のあたりに後光が射すように現れたこともあれば、物全体が輝いて見えたこともあったが、そのたび何か大いなるものの気配を感じ、あるときはその荘厳さに圧倒され、またあるときは喜びといったものに満ち溢れてこうべを垂れた。

そしてこの時も——幼いころの誕生会の思い出や、母の笑顔などを思い浮かべながら白い外来診察室の廊下に腰かけていると、舞台でいう上手側から温かいものが急速に接近してくる気配を感じた。……そう、この手の「光」には温かさもあるのである。

白い光に包まれて飛びこんできたのは、電話で同席を依頼していた元ボスのR医師だった。「ごめん、遅くなって」といって、目のまえの扉を指さす。その数分前に扉から顔を出したT医師に、「外来診察終わったけど、R先生はまだ?」と尋ねられ、「来られたらノックしてね」と言われていたため、元ボスにうなずき返すと、素早いノックとともにすぐさま中へ招き入れられた。

「見つかったのは、これです」

勧められた椅子に着席するやいなや、コンピュータ上で胃の画像を開き、ピンク色の壁の一部がうっすらと白くなっている部分を指し示して、T医師は告げた。

「リンパ腫の一種です」

ストーブのような光にあたっている安堵感と、つきつけられる凍るような現実のはざまで、心は半熟卵のようにプルプルと震える。

「昨日、すこしT先生と話したの」と、こんどは一緒に相槌を打っていたR医師が口をひらいた。「治療が必要なんだけど、とりあえず、放射線治療に進むことになると思うの。そうすると、あなたの場合、以前、乳がんの治療で胸部に放射線を当てているということが問題になってくるんだけれど……」

「つまり、健康な臓器に2度当たらないように、細心の注意と技術をもってのぞまなければならない、ということです」とT医師があとを継ぐ。

「そこで、どこで治療を受けるのがベストか、って問題になるんだけれど……」とR医師。「うちではいかにせん、症例数がすくないし、やはり症例数のより多いところで受けたほうよいと考えると……さゆりさん、アメリカで手術した後、G病院で放射線当てているでしょ? そこには照射歴も残っているだろうし、やはりそちらがベストかと……」

「あのう……先生……」と、ここでさゆりが口をひらく。「先生」という言葉に「ん?」「ハイ」と2人同時の返事がかえってくる。「不思議な流れなんですけど……その後、半年に一度定期検診を受けているG病院のP先生の外来予約が、たまたま来週なんです……」

2人の医師の目が同時にキラーンと光る。「それだわ。じゃ、先生、資料を一式お願いします」と元ボス。終始かたい表情だったT医師も、「わかりました。じゃ、P先生に、何科のどの先生宛に紹介状を書けばいいかうかがって、その結果を連絡ください」といって、はじめてすこし表情をくずした。

「検査のときはよく眠れましたか?」R医師が退席してしまうと、資料を整理しながら、やさしくT医師が尋ねた。「はい、よく眠れました」「それはよかった。起きてすぐ『細胞診』と言われてびっくりしたでしょうけど」

「ほかに、質問はありませんか? ご不安でしょうから何でも聞いてください」と資料整理を終え、こちらに体の正面を向ける医師。「胃カメラ検査をされたときの状況を、もうすこし詳しく聞かせてください」とリクエストすると、T医師は、大好きな星雲について語る天文部の青年のように、やや頬を紅潮させ、こう答えた。

胃カメラを入れたとき、なんてキレイな胃だろうと思いました。そこに突然、白いものが現れたので……正直、驚きました」

「見てすぐに、それとわかりましたか?」とさゆり。「……はい、わかりました」とT医師。「でも、本当に幸運が重なって見つかったと思います。あそこの胃カメラは拡大鏡がついていてよく見えましたし、もしかしたら、春に受けていたら見つけられなかったかもしれない……そんなタイミングでした」