通じ合う心
叔母の作品が日展の書部門に入選した。招待券を送ってくれたので、これは見にいかねばと、商社時代のF先輩を誘い、六本木の国立新美術館へ。
このツアー、直前になって道連れがもう1人ふえた。さゆりはその前後、恋人と別れたばかりで「時々心がざわつく」となげく友人TK嬢に「24時間いつかけてもいいから」と伝え〈命の電話〉担当となっていたのだが、前日、「やっぱりざわつく」と電話してきた彼女を放っておけず、F先輩にことわって六本木に連れ出したのだ。
もちろん、2人は初対面。ところがF先輩、会ってすぐさゆりに「パンを焼いてきたの」と「これが〇〇パン。こっちが〇〇ロール。こっちはすこしかたいから、先にこっちから食べるように」と、いつも通り念入りな説明とともに紙袋を丸ごと手渡すと、肩にしょってきたバッグからもう1つ同じ大きさの紙袋をとり出し、「はい、こちらはあなたの分」とまるで何十年来の知己のようにTK嬢にさし出した。
「え?」と目を見ひらき、さゆりを振り返るTK。桃太郎のさいしょの家来となったイヌの気分で「そういう方だから。遠慮なく」とエッヘン風を吹かすと、紙袋をひらいて作りたてのパンの香りを胸いっぱい吸い込み、ここしばらく見ることのなかった幸福そうな笑顔を見せた。
「とつぜん3人になったのに、パンまで作っていただいて、本当にありがとうございます」
せっかくだからと開館前からならんで入ったピエール・ボナール展の雑踏のなかで礼を述べると、F先輩はなんのなんのと手をふり「なんだか今日は〈あと1人誰か来る〉って、そんな気がしたのよね~」といって笑っていた。
その後、日展エリアへ移動。数ある展示会場をゆっくり見て回り、IKEAのそれのような粋なカフェテリアでパスタ・ランチをすませるころには2人はすっかり意気投合。さゆりをとび越して次回のワインの会のお誘いまで受けてしまったTK嬢、「かっこいいね~」「素敵な人だね~」とすっかりバブル期の〈デキるOL〉の象徴のようなF先輩のとりこになってしまった。
「2人とも、詳しいことは知らないけど、とにかくじめしめした空気をふりはらって、よい〈氣〉を呼びこむことが大切よ。そのためには、まずは呼吸法。はい、ここにならんで。鼻から息を少しずつ息いれてお腹にためてって……そう、もっと、もっと……」日展終盤のすさまじい人ごみをもろともせず、美術館のロビーでF先輩の〈氣〉のレクチャーはつづく――「はい、じゃ、口から吐いて~そう、長く~さいごまで~」
さらに、ようやくあいた椅子にTK嬢をすわらせ、足もとにうずくまっての足のマッサージ――「こんなに冷たい足してちゃダメ。手足が温まってないと、よい〈氣〉も逃げてしまうの。お風呂でしっかり温まって、こことここのツボを自分で押すようにしてみて」恍惚感にひたるTK嬢の目が、ほのかに光っている。「誰かが誰かの愛を受けている光景っていいな~」と、さゆりもなんだかよい〈氣〉が充満してくる思い……
商社時代、誰よりも厳しかったF先輩――だが、あとからふり返ると、〈仕事の基本〉というものを、この時期にしっかりたたきこまれたように思う。それが見えない財産となって、日本はおろか海外でさえ、その後どれだけ役に立ち、助けられたことか……ほんとうの愛とは厳しさなのだと、さゆりに教えてくれたのはほかならぬこのF先輩だった。
「はい、じゃ、さゆりちゃんのマッサージは次回ね。家にいる時間ができたんだったら、まず断捨離をして、家の中の風通しをよくすること。部屋にありったけの太陽の光をとりいれることが大切よ。とくに玄関と窓辺は広くあけて。それから深呼吸を毎日。できるだけ新鮮な〈氣〉の入った食べ物を選んでとるように」
そういって、F先輩はコートのポケットに手を入れたまま、大判のスカーフを風になびかせ、六本木交差点方面に向かって颯爽と去っていった。
(*写真は、F先輩のイメージとかさなるムスカリ。花言葉の1つは「通じ合う心」)
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