シングルマザーの勇気と情熱

「母として」から、「自分らしく」へ。2019年、気球に乗り換え、さあ出発!

患者の一番長い日

つぎの検査日は本当に、人生でもっとも来てほしくない日の1つだった。腰の引けるメニューが、計画表の上に目白押しにならんでいる。まるで出場したくない種目ばかりの運動会のプログラムをながめているような気分。中でも一番回避したかったのは「骨髄穿刺」ーー骨盤の骨である腸骨に針を刺して、骨の中にある骨髄組織をとる検査である。

この検査はしかも、上部消化管内視鏡検査(胃カメラ)とセットで行われることになっていたため、前日夜8時から食事制限があり、〈水、茶、スポーツドリンク、繊維のないジュース〉以外は摂取できぬまま、通勤時間帯の満員電車に揺られてG病院に到着。前回ナースに連れられ予行演習したルートを通って検査受付に行き、さらに、朝一番の血液検査で少なくない量の血をとられ、フラフラになりながら予約票を提出してコールを待つ—―。

しばらくして番号が呼ばれ、受付の手早いベテラン女史に「胃カメラと骨髄検査、どちらから始めますか?」と訊かれた。今ならどちらからでもできるという。だが、胃カメラ検査の内容は理解していても、対抗馬の正体がわからないので選びようがない。「骨髄穿刺って、つらいんですよね?」とおそるおそる尋ねると、「そうですね……ま、でも、同じ検査をセットで受ける方は今日だけでほかに5人いますから」と、さらりとかわされた。

こういうときは「カ・ミ・サ・マ・ノ・イ・ウ・ト・オ……」と目で2つの文字を交互に追っていると、さいごの文字にたどり着くまえに目の前の電話が鳴り、「胃カメラが早そうですので、さきに内視鏡検査室へ行ってください」といわれ(まさに「神さまの言う通り」!)……地図を渡され、別館へ。待合のすみに備えつけられた鍵つきのロッカーへバッグとコートを入れ、身一つでふたたび待機――。

そのとき、番号を呼ばれ、さゆりのななめ前にいた車いすの男性が「はい」と手をあげた。近づいてきたナースに「確認のため、生年月日を言ってください」といわれると、男性は背筋をピンとはったまま、「昭和10年、〇月〇日生まれのジジイです!」と高らかに答えたので、まわりから思わず笑いがこぼれた。……やはり、さいごに人間を救うのはユーモアである。

それから待つこと10分。コールされ、上の階の検査室へ移動。室内には、ドクターの趣味だろうか、耳障りのよいjazzのような音楽が、ほどよい音量で流れている。目をつむり、音楽に耳をそよがせていると、すぐに意識がなくなり、気がつくとリカバリールームへ……

そこは、宇宙戦艦の指令室のような、ひじょうに機能的なスペースだった。ナースステーションをかこんでカーテンで仕切られた小部屋がぐるりとならんでおり、その中に、それぞれリクライニング・チェアが用意されている。ナースたちが常に声をかけながら、患者ごとにセットされたタイマーを気にかけてくれている。中央には、全体をしきるオペレーション・リーダーのナースの気配が感じられる。カーテン越しに聞こえるその人のきびきびとした、しかしどこか優しく慈悲深い声に、みずみずしい命を再注入してもらうような思い……

小1時間ほど休んで朝の受付へもどると、また例の女史が顔を出し、手早く書類をまとめながらとぼけた様子で「骨髄穿刺ははじめてですか?」とたずねる。「はい。できれば生涯回避したかったですけど……つらいですか?」とふたたび訊くと、こんどは「つらくて仕方がないという人もいるし、思ったほどではなかったという人もいます」と老落語家のようにかわされた。

苦笑いをしながら検査室前へ移動。少しして招き入れられた室内は、思いのほか簡素な診察室然とした部屋だった。

Dr.「では、ズボンを腰骨の下までさげ、この台にうつぶせに寝てください。部分麻酔をして、それから針を入れていきます。その後、押されるような感覚があって、ちょっとつらいかもしれませんが、ともかく体を動かさないように」

さ「つらいですか?」

Dr.「そうですねぇ……まあ、うめく人もいます」

さ「……う、うめくんですか?!」

Dr.「はい。でも、うめかない人もいます……僕もやったことありますけど、まあ、なんとかはなります。あなたの前にやった方は、80代の女性でしたから」

これぞまさに「まな板の上の鯉」……どうあがいても、これから起こるであろうことは回避できないのだが、「同じ検査を受ける方が今日だけでほかに5人います」「そのうちの1人は80代の女性」などといわれると、不思議と度胸がすわってくる……

いよいよ検査台に横たわり、麻酔が開始される。ドクターはナースと相談しながら針を刺す位置を慎重に決め、専用のペンで印をつけていく。「……では、始めます」――台の下に回した手の親指の爪で人差し指の腹を思いきり突き、神経の腰への集中を逃がそうと企てる。(この時間がおわったら……)――すべての検査がおわったら、ありつけるであろう1杯のカフェラテに思いを馳せながら……

「はい、針が入りましたよ~今、骨を通過しました。ここから押される感じが続いてちょっとしんどいと思いますが……」――検査を行っているドクターの実況中継が、どこか遠くの彼方から耳に流れてくる。

そこからは、うめきの連続だった。「う、う、う、う、う、う、う、う、う……」と、検査台の両脇をつかんで歯をくいしばり、自分の放つ「う」の数をかぞえていた。腰のあたりに覚える感覚は、「押されてしんどい」というより、激しく「引かれてしんどい」といった感じ。意外だったのは、腰の左側から行われたこと。のちに「腰の真ん中を刺すのかと思っていました~」と乳腺外科の主治医であるP医師に明るく言ったら、「真ん中になんて刺したら恐ろしいことになっちゃうよ~」といってひきつり笑いをしていたが。

永遠とも思える時間もやがては終わり……すべてのメニューから解放され、カメの歩みで満身創痍の身を運び、最上階ちかくの見晴らしのよいカフェへ――そこで味わったカフェラテは、自分史上最高の1杯だった。

 

 

 

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