シングルマザーの勇気と情熱

「母として」から、「自分らしく」へ。2019年、気球に乗り換え、さあ出発!

中継ぎのエース

血液内科デビューの日――その日は恐ろしさや不安よりも、圧倒的に期待感、ワクワク感といったものの方が勝っていた。病が発覚した以上、すこしでも早く治療を開始してもらいたい。かつ、その間に転院という、一瞬はしごを外されたような期間が到来したため、送り出された側にも受け手の側にも強い信頼の気持ちはあれど、移民難民のごとく、一刻も早く無国籍状態から抜け出したかったのである。

かような心境で、足どりかるくG病院に到着したものの、いざ従来と異なる階、異なる科の表示板のまえに佇むと、とたんに胃のあたりがきゅるる~んとし、「ここで開かれる世界がすこしでも静穏なものでありますように」と祈らずにはいられない。……

S病院を離れるかどうかについてR医師と話したとき、「放射線治療であれば症例数の多いG病院がベストだと思う」という医師に対し、「その先化学療法へ進むようであれば、S病院のほうが落ち着けるのですが……」との不安を口にしたことがある。それに対するR医師の返答は「化学療法へ進むとしても、今回の病気だと血液内科の担当となるから、いずれにしろうちのチーム(乳腺の主流は腫瘍内科)ではなくなるわよ」というもので、その答えに直面したとき、「ああ、どんなに望んでも、科やチームを選ぶのは病気のほうであって、患者ではないのだ」という事実を狂おしくも再認識したのだった。

……そんな経緯を感慨深く思い返しながら、新しい科の扉をくぐる。なじみの科とはまったく異なる図書館のような雰囲気の受付で、新天地への通行手形のように受付票を渡すと、「今月から個人情報に配慮し、院内全域にわたり番号でお呼びすることになりましたので、こちらの番号をお忘れなく」といわれ、向かいの席につく。

そこからは、愉快な展開が待ち受けていた。中待合室的な通路に面した椅子には、おなじ案内を受けた人々がひしめき合っていたが、ほとんどがさゆりより年配の方々であるためか、ドクターがマイクで「35番さん、診察室3番へどうぞ」と放送しても、誰も席を立たない。ナースが出てきて「35番さん」「35番さん」と呼んで回っても無反応……ついには診察室の扉からドクターが顔を出し、「〇〇さん、〇〇トシオさーん」と実名を連呼し、ようやく本人が立ち上がる――というシーンが繰り返され、おかげで緊張が増しそうな待合時間を、ほのぼのした気分で過ごすことができた。

A医師は想像どおり聡明な印象の、中継ぎ投手として登場したら皆がたのもしく見上げそうな、エースの風格を備えたドクターだった。まず、想定される病気の説明から入り、長い問診へと移る。淡々と質問しては、うなずきながらさゆりの答えを電子カルテに手際よく打ちこんでいく。頭脳明晰なためか、日本語がまことに速く、うかうかしていると単語を聞き逃してしまう。また、こちらがすこし遠回りだったりまと外れ的な回答をはじめると、「そこではなくて、こっちです」と "Get to the point!" といわんばかりのポイント切り替え作業を速やかに行ってくれる。

質問の内容は、既往症、生活習慣、家族構成……と多岐にわたったが、なかでも印象深かったのは「アスベストを吸う環境にいたことがありますか」「兄弟姉妹でどなたがいちばん健康ですか」という質問だった。後者に関しては、のちに進むことになる検査項目のなかに〈骨髄穿刺〉とあるのを見たとき、「ああ、『血のつながり』とはよくいったもので、血液関連の病気である以上、家族に協力してもらうような事態も想定されるのか」とあらためてこちらも、将来家族の誰かの役に立つときのために健康を回復せねば……と自身を奮い立たせる。

「まずもって、S病院で見つけていただいたことは幸運だったと思います。ですが、それはあくまでも予備診断。それはそれとして、こちらではまた一から詳細な検査を行いますね。病気は想定されるとして、どのような形で、どの程度広がっているのかを調べなくてはなりません。血液は全身を回っていますから、どこへでも行ってしまう可能性はあるわけです……今日もさっそく、入れられるだけの検査を行ってしまいましょう。今月中にいろいろやりきって、年の瀬に最終診断結果をお伝えします。本格的な治療は……まあ、今のスケジュールからすると、年明けですね」

「また年の瀬にお会いしましょう」と笑顔をみせるA医師に礼を述べて退室すると、ドクターのとなりに立ってずっとあいづちを打ち続けていたナースが後を追うように出てきて、中待合の椅子で今後の検査について詳細に説明してくれた。「では、これからいろいろ院内を複雑に回らなければなりませんので、ここからはしばらく私がお供しますね」とにっこり……

たいへん心強い申し出だったが、先ほどドクターから「とにかく、あまり過度に心配しないように。一つ一つこなしていきましょう」といわれてホッとしたのもつかの間、専門のナースが1人検査について回ってくれるという、まるで専属キャディを携えたプロゴルファーなみのVIP待遇に怖れをなし、気分がガクンと沈んだそのとき、「きっと、大丈夫」と語りかけてくれたのは、大廊下に展示された闘病中の子供たちの手による色とりどりの工作だった。