シングルマザーの勇気と情熱

「母として」から、「自分らしく」へ。2019年、気球に乗り換え、さあ出発!

人生ファブリック

朝、テラスが出かけてまもなく、宅配便のお兄さんがやってきた。扉のすきまから、腕に抱えられているほどよく運びやすい大きさの箱を見ただけで、さゆりには差出人の察しがついた――先ごろ、国立新美術館で〈氣〉のレクチャ―をしてくれたF先輩である。

F先輩からはときどき、いつまでも「放っておけない」危なっかしい生き方をする後輩へ、こうして「支援物資」が届く。もう、何年になるだろう……さゆりが妊娠中「つわりがひどくて何も食べられない」と書き送ったとたん、米国サンフランシスコにも届いていたから、かれこれ10年以上にはなるだろうか。

当時の日記を紐解くと、〈F先輩よりお茶漬けのり、きつねどん兵衛、紅茶、おせんべい、ちらしずしセットといった心づくしの航空便小包が届く。なつかしい日本橋の消印の箱に手をあわせ、さっそくおせんべいをほおばると、あとは箱に入れたまま「私の宝箱」と宣言してベットの脇におく。ときどき気分がわるくなると箱をあけ、アールグレイの香りをかぐ。F先輩、ありがとうございました!〉などと綴られている。

この「アールグレイの紅茶」というのが、じつはF先輩がアメ横仕入れ、絶妙な配合でブレンドした特製品で、その香しい味わいは天下一品! 圧巻だったのは、米国から慌ただしく帰国した後、すぐに実家を離れることとなったさゆりに、中古の家電製品と特製アールグレイに添えられていたメモ書きだった。

〈さゆりちゃんへ どんな境遇におちいっても、ワインと紅茶の質だけは落としちゃダメよ〉

これはけっして贅沢のススメではなく、「どんな境遇でも矜持を保ちなさい」という教えだと理解したさゆりは、その香しいアールグレイにお湯を注ぐたび、背筋をスッと伸ばしたものだった。

毎度のことながら、わくわく心をおさえきれずに箱を開けると、おおらかな字体で〈Invoice〉と書かれた紙が目にとまった。さすが元商社レディ、物品を送るときはかならずこの〈Invoice〉という名の明細書を添えてくれる。その中身はというと、

〈さゆりちゃんへ 体温を一度上げると免疫力が30%アップするそうです。腹式呼吸で自律神経をコントロールしましょう。

・じゃがいも メークィン(長い形)―—崩れにくいのでシチュー等に

       男爵(丸い形)——いつものホクホク

       とうや―—残念ながら完売してしまいました……また次回!

・ピーマン うちの庭で作ったもの。無農薬。季節のおわりなので小さい。

      同梱のじゃがいもと炒めて召し上がれ。

・りんご 山形のふじ

・十万石 行田銘菓

・紅茶 私のブレンド

・手製ワンピース 若いころに買った生地で、さゆりちゃんお好みの色かと。

         ベルトはウエストに二重に巻き付けて。気に入らなければ返品可〉

といった具合。もちろん、さゆりの好みを知り尽くしているF先輩の見立てが気に入らないわけはない。

不思議なことに、このF先輩からの〈支援物資〉は毎回絶妙なタイミングで届く。まるでこちらの心持ち(氣の流れ⁇)を人工衛星経由で探知されているよう。雨の日にコーヒー豆がなくなって困ったとき、明日の会に着ていくのにぴったりのブラウスが手元にないとき、まるで心で思っただけで届く特注品のように、「ピンポーン」とベルが鳴る。……

この日、さゆりが強烈に欲していたものは、ほかならぬF先輩ブレンドアールグレイ——来るべき病の検査の山場に向け、また〈恐れ〉という怪物が頭をもたげてきたため、その強敵に平常心で立ち向かうための魔法の道具の1つとして、欲していたところだった。

扉をあけ、腕のなかに抱えられた箱をそれと認識した瞬間、いつもの人のよさそうな笑顔をうかべる左前歯のかけたお兄さんの上に、一瞬、光の環が見えた。

さっそく湯を沸かし、ゆったりとした気分でガラスのポットに入れたアールグレイのこまかな葉の上にすこしづつ注ぎこむ。とたんに豊かな香りが部屋いっぱいに広がり、まるで見えない巨人がポットから出てきてさゆりの体を支えでもしてくれるかのように、全身の力が抜けていく……

贅沢なティータイムで〈氣〉を高めた後は、家事のつづきを丁寧にこなし、R珈琲館よりすこし先のM珈琲館めざして出発。その日、激励にかけつけてくれたのは、高校時代の友人MK嬢——さゆりにとっては〈切り札〉的な、人生の最重要人物の1人である。

たがいに生活が落ち着かず、なかなかゆっくり会う機会はないのだが、それでもこれまで折々で寄り添い、肩をたたき合ってきた。今でもかわらぬ(というより、年々美しさを増している)容姿端麗なMK嬢は、さゆりのあこがれの女神であり、叱咤激励してくれるちょっとお姉さん的な存在。その日本人ばなれした凹凸のあるくちびるから放たれる言葉は、折々でさゆりに重要な示唆を与えてきたため、会談のまえにF先輩ブレンドティーで〈氣〉を高められたことは幸いだった。

「今回の件だけど……私はどうもわるい方へ行くような気がしない。たいへんだとは思うけど……でも、どうしてもそう思えない」

渋めのブレンドコーヒーをまえに、さゆりが近況を語り終えたとき、MK嬢はこちらの目をまっすぐ見てそう感想を述べた。うなずきながら、口へはこぶコーヒーとともに、その言葉を数回にわけて飲みこみ、体になじませるさゆり……

気がつけば、日はどっぷりと暮れ、正午過ぎに会ったMK嬢と「さくっと会いましょう、といって、かるく5時間半!」と会計で笑い合った。MK嬢とはかつて、〈ファミリーレストランで17時間半〉という驚異の会談記録がある。彼女の人生の一大事に、さゆりがかけつけた折だった。「これが飛行機のシートだったらもうすぐサンフランシスコに着いちゃうね~」から「そろそろロンドンに到着するかな」になり、気づけばアルバイトの給仕係が三転していた。

——友人と別れて目を上げると、濃紺の空に静かに冴える三日月が目にとまった。

〈た~ての糸はあなた、よ~この糸はわたし……〉

三日月を追って夜道を歩きながら、中島みゆきの「糸」がふと、頭に流れてくる。

(たての糸は……私。そして、よこ糸としてさまざまな人が登場し、人生折々の織面を形成してくれる……)

たての糸は美しくなくとも、さしづめ丈夫でさえあればよい。そして、折々の美しいよこ糸をとりこんで形成される織物(fabric)が、いつか誰かを「あたため」、誰かの「傷をかばえば」よいと願う、師走の家路をいそぐさゆりだった。

 

 

 

糸

  • provided courtesy of iTunes

 

[rakuten:hokkaidosantyoku:10000022:detail]