シングルマザーの勇気と情熱

「母として」から、「自分らしく」へ。2019年、気球に乗り換え、さあ出発!

米国式告知法

人生において歓迎しないことにはあまり慣れたくないが、今回の突発的騒動においてそれなりに冷静でいられたのは、やはり先の乳がん騒動における2つの「告知」のおかげだと思う。最初は日本——そして2度目は米国での体験である。

日本における人生初の告知は、タイミングも内容も、誠にひどいものだった。しかも、結果的にがんではなかったのである……だが、その方法はともかく、できごと全体に関しては、今となっては感謝するしかない。なぜなら、そのこと(左胸)で騒いだことにより、本物の病気(の種)が反対側(右胸)で見つかったのだから——。

新婚2年目、当時の伴侶アンディー留学のため、さゆりたちは1年間、東京暮らしをしていた。そんな折、左胸にしこりのようなものを見つけ病院へ行くと、問診・触診後、若い医師に「なんでこんなに大きくなるまで放っておいたの」と叱りつけられた。

怯えるなか、直ちにマンモグラフィーを撮り、エコー検査後、再度呼ばれた部屋には「告知用」とも思われる温和なベテラン医師が控えていた。うす暗い部屋のなかで、さゆりは「残念ですが、結果からするとほぼまちがいなく悪性……」と告げられ、とつぜん顔を向けられ、英語で ”malignant”(悪性)とだけ言われたアンディーに至っては、椅子からころげ落ちるほどの衝撃を受けてしまった。

わらにもすがる思いで予定を早めて帰米し、米国で再検査を受けたところ、左胸のしこりは"water bag"(水の袋)と判明―—「ただし、右の胸に懸念事項あり」ということで、要観察期間を経て細胞診をした結果、2年後、DCISの部分切除を受ける運びとなった。……

その騒動の最中、とまどったのは「告知」に対する日米の考え方の違いである。日本では当時、家族は患者同様(もしくはそれ以上)に扱われる場面が多かったが、米国では「患者のプライバシーは、あくまで患者個人のもの」。ID(身分証明書)を見せ「夫です」「妻です」と名のっても、「個人情報は本人にしか明かさない」という姿勢を貫かれる。

そのころ、まだ多分に「日本的」であったさゆりは、電話で細胞診の結果を聞く勇気がもてず、アンディーに「まずあなたが聞いて、深刻な結果だったら私にはけっして話さないで」と頼んだことある。「そうしてくれるかな~。こちらではひじょうに難しいことなんだけど」と頭をかかえながら受話器をとりあげたアンディー。電話口に出たナースに「あなた本当にhunband ? なにか証明できるものは? 奥さんとの関係は良好?」などと質問攻めにされ、けっきょくさゆりが電話口に出てすべてを聞くはめになってしまった。……

この過程は「患者」としての自覚を高める意味においては非常に有益だったが、当時は「病気の告知」そのものと同等なくらい、苦しい試練の1つだった。

(*写真は、当時住んでいたアパートメントからの眺め)

 

 

思い出のサンフランシスコ

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